第一希望で当選しました

気の赴くままに日記を書きます。

第一志望に落ち、適当に選んだ大学に行った話

 雪が少しずつ溶けてきて、靴がびしょびしょになる2月末。6年前、靴を濡らしながら、私は北海道大学、通称北大の二次試験を受けていた。


 大学を卒業し2年が経つ。あの時のことが段々と思い出になり美化されつつある。今なら笑って話せることも増え、それが嬉しくもあり寂しくもある。いまの私にとってのあのときの大学生活を文字に起こし、何年か後にどれほど形が変わっているか見てみたい。そんな、ゆるい気持ちではてなブログ初挑戦。


1.受験

 二次試験を受けた後、入学した学校は小樽商科大学、通称樽商である。つまり、北大には落ちた。二次試験の手応えは笑えるほどなくて、でも一抹の期待を持って合格発表の日には大学に足を運んだ。友達と行くほどの勇気はなかった。合格者を待ち構えるラグビー部に囲まれながら自分の番号を探したけれど、やっぱりないものはなかった。ぼーっとしながら母と塾の先生に報告の電話をいれ、うちに帰ってからちょっとだけ泣いた。次の日には、あらかじめ気分を変えるためにとチケットを取っていたお芝居を観に行った。一緒に行く予定だった友人から、やっぱり行けない、ごめんねと連絡があり、母と観にいった。内容は曖昧だけど、そこでわんわん泣いたのは覚えている。樽商の後期試験はセンター試験の結果だけで判断されるため、そこで私の受験生活は幕を閉じた。センター試験は、総合で672点、英語が172点だったはず。なんとなく、記憶にこびりついた数字のひとつだ。

 樽商には絶対に受かると思っていたから合格発表の結果さえ確認しなかった。しばらくすると家に入学準備の書類が届いて、少しだけ実感が湧いた。大学生活が始まるという実感よりかは、受験生活から解放されたという脱力感だったと思う。これ以上の努力はないほど勉強をしたから、これが力を出し切った上での結果なのだと信じて、浪人にはならなかった。本当はまた1年間勉強漬けの日々になることに耐えられなかったからだった。

 樽商を選んだ理由は、家から近いし、みんな選んでいるから。通っていた高校で北大文系を受ける子は、ほとんど樽商も受けておくことが多くて、何も考えずに私も樽商にしていた。願書に親の名前を書く欄があって、そこに自分の名前を書いてしまって二重線で消したくらい、適当だった。今思えば、そもそも北大を第一志望にしたのも家が近くて頭がいいところだから、そんなものだった。地元で一番頭がいいところ。通っていた塾の先生はみんな北大の学生だったし、北大を受けると言うだけでおばあちゃんは喜んでいた。高校2年生のとき、大学に合格した何年か上の先輩からの話を聞く機会があって、「高校のときからやりたいことがなくたって、北大行ってからみつかるよ。」と言われた。それが私の免罪符となり、将来のことを考えなくなっていた。大学行ったら、なんか見つかるらしい。いまは勉強で忙しいから、未来の自分に未来のことを任せることにしたのだった。顔も名前も覚えていないけれど、言い訳に使ってごめんなさい、先輩。


2.学生生活前半

 そんなだから、樽商がどんなところかも知らずに、入学式ではじめて校舎を見た。第一印象は、小さくて古びている、山奥の大学。大学生活の始まりに期待を寄せ、桜の花びらとともに胸を高鳴らせながら校門をくぐる、なんてことを、山奥にひっそり佇む学校を見てできるはずもなく、入学早々の悩みといえば友人ができるのか、その一点であった。高校の時から政治経済が一番の苦手で、商学なんて微塵にも興味はなかった。商科大学なのに。高校生のときのトラウマから、とにかく気の合う友人を探すのに必死で、いろんなサークルに入った。最初はそれなりにたくさんの知り合いがいたけれど、最終的にいつも一緒にいたのは、数人の男友達とゼミの友人だけだった。

 入って最初の方の授業で、一年生4人でグループをつくった。みんな必死に会話をして、探り合っていた。樽商を選んだきっかけなどを話しているとき、1人の女の子が、ずっと樽商を目指して勉強してきたから、入れてとても嬉しいと、目を輝かせて話してくれた。少しだけの罪悪感と、私も北大に入れていたらそう思っていたんだろうなという共感があった。そこで、世の中には北大が滑り止めの人もいて、今の私のように感じている北大生もいるのだろうなと思った。なぜこんな基準を持っているのか、樽商に基準を下げられれば幸せなのにと、学力というひとつのものさしであれこれ四苦八苦していた。これが結構私を苦しめる、呪いの価値観だった。


 授業は単位を取れればよく、卒業するための手段。私は大学2年生までバイトに明け暮れていた。大学に入ってから好きになったジャニーズのライブに行くため、とにかく稼ぎまくった。大学で適当に過ごすより、Twitterで知り合った、年齢も出身地もバラバラな友達と、東京や大阪でライブに入る方が100倍楽しかった。なぜか身近な大学よりも、Twitterで知り合った友達の方が、同じ価値観を共有できたのだった。相変わらず将来のことはあまり考えないようにしていたけれど、漠然と小さな不安が溜まっていって、それを忘れさせてくれるのがアイドルだった。


3.学生生活後半

 2年の後期にゼミナールを決めた。迷わず心理学の先生のところを選んだ。メンタルが弱くすぐにメソメソする私は、社会に出てから毎日泣かない自信がなかった。今のうちに泣かないようにしなければ、そう思って心理学を選んだ。私は心理学を勉強すれば強い人間になれると勘違いしていた。入ってすぐ、先生に、強くなるのではなく弱い自分を受け入れましょうと言われて、それでまず泣いた。学力もなく、思慮深さもなく、後ろ向きで、面倒くさがりで、気持ち悪いタイプのヲタクだし、自信もない、そんな弱い私を受け入れなきゃいけないのかという絶望と、初めて他人に「受け入れて良い」と許された安堵だった。

 樽商に入ってよかったとは今でも正直思わないけれど、樽商に入らないと先生にもゼミの友人にも出会えなかったから、得られたものには感謝している。ここまでダラダラ書き連ねたけれど、学生生活の思い出の大半はアイドルとゼミである。

 先生は社会心理学の教授であり、学生支援に力を入れていた。先生にはなんでも話せた。好きなアイドルが病気になったことも、実はずっと爪を噛んでいたことも、何をやりたいかわからなくて就職がとにかく怖いことも、なんでも話した。先生はいつでも受け止めてくれて、先生を通じて私は私と話すことができた。何十も歳の離れた大人の男の人と、通じ合った会話ができることに私は感動した。やっと先生の元で勉強の楽しさを知った。同時にできたゼミの友人も、今まで知り合ってきた人とは違う価値観を持った子だった。とにかく知識が豊富で、その視点が面白く、ヲタクで、変な子で、話していて飽きなかった。


 3年の夏、大学の友人のほとんどは遊びに明け暮れていたが、Twitterで知り合った本州に住んでいる同い年の子たちは、みんなインターンに参加していた。私はとにかく焦って、東京で就職するためには今から動かないと間に合わないと思った。適当に、楽しそうな玩具メーカーインターンの面接を受けて、惨敗してやめた。

 3年の冬に、先生に「先生のようになりたい」と相談した。カウンセラーについて調べてたら、臨床心理士という資格をみつけ、それが大学院に行かなければならないものだと知った。これで就活から逃れられる。受験勉強から逃れたときと、同じ気持ちだったと思う。

 当時は真剣だったが、今思えば軽い気持ちで院に行きたいと考えるようになった。臨床心理士になると完全に決めたわけではなく、もっと勉強したいと思い、院進がゴールだった。3月になって大学院入試の予備校の説明会に参加した。臨床心理士について、非正規雇用の現状などを滔滔と語られ、覚悟を決めてから受けた方がいいと脅された。少し怖かったけれど、もう後戻りできないと思った。3月から就活は解禁されていたから。

 本屋で大学院用の参考書を購入し、通信で10万円くらいのコースに入り、あの日の受験生活が再び始まった。北大の大学院を目指した。今北大に通えば、あの時の自分が救われると思ったからだった。北大のあの並木道を歩く自分の姿が、どうしても頭から離れなかった。

 勉強している間は何も考えなくてよかった。ただゼミで心理学の基礎をかじっただけだったので、初めて必要単位以外の教育心理学も履修した。周りは教師志望の子たちばかりで、その熱量にドギマギしていた。

 とにかく自信がなかった。とても孤独な勉強だった。5月ごろ、先生に進捗確認に呼び出された。参考書を適当に開いたページから、ピグマリオン効果とはどういう意味でしょうと問題を出された。私は答えられなかった。

 このころから、毎週金曜日に学生相談室にも足を運ぶようになった。無料でカウンセリングを受けられるところが学生の何よりの特権である。もちろん相談室の方は臨床心理士の資格を持っていて、その相談をした。この年から公認心理士という国家資格ができること、公認心理士は学部から心理学部でないと資格を取れないこと、新しい資格なのでこれからどうなるかわからないことを教えられた。

 何週間目かからは、臨床心理士の話ではなく純粋にカウンセリングを受けていた。内容はさまざまだったけれど、ほぼ懺悔の時間だった。学力というものさし、普通というものさしから生まれる自分への憎しみをとにかく聞いてもらった。毎週嗚咽を撒き散らしながら山奥の校舎を歩いた。また同じ頃、北大の友人つてで、北大の院の臨床心理に在籍する先輩と会うことができた。その先輩はいろんなことに興味がある方で、とても共感できた。周りはみんな臨床心理士を目指しているが、自分は研究に楽しさを見出していて、一旦休学して考えた結果異動することにしたと話してくれた。共感すると同時に、私もそうなるかも、と不安を覚えた。


 6月の後半には、机の前に座れなくなった。正しくは座ると泣くようになってしまった。父も母も応援してくれている中、こんなこと言い出せなくて、図書館に行くふりをして公園で泣いて過ごした。馬鹿みたいに不安で、お先真っ暗で、大学を卒業して就職して結婚して、みたいなルートが憎くて、それに沿えない自分が失格に思えて、とにかく死にたかった。ハートネットのサイトを眺めては時間が過ぎていった。

 夜は泣き疲れて眠れるが、朝起きるのがとにかく怖かった。もういよいよどうにもならないと思って、ずっと下書きに保存していたメールを先生に送った。死にたくてどうしていいかわからない。そんなメンヘラメールを受け取った先生は、すぐに返信をくれた。先生って大変だなと感じた。

 先生と会う約束をしたが、私は教室に入る勇気がなかった。5分ほどドアの前でうろうろして、待たせるのも申し訳なくてやっと入った。まず連絡をくれてありがとうと言われたことにびっくりして、もう泣いてしまった。院に進むと言ってからも、どこか真剣に調べることができなかったこと。北大の説明会に行って、劣等感で心が折れてしまったこと。先生はここで、初めて私に「僕も、あなたはあまり進んでやりたくないのかなと感じていました」と言った。申し訳なかった。ひたすら泣いて謝って、就活もしたくないし院にも行けないと初めて人に伝えた。先生は、ずっと話を聞いた後、優しく褒めてくれて、伝えてくれてありがとうと言った。

 同じように相談員のカウンセラーにも話をした。結局私はいつの日も逃げ続けているんです、受験の時もそうだったし、進路を決めることからすらも逃げているんですと、持参した鼻セレブ片手に捲し立てた。カウンセラーはあっけらかんと、それって逃げているのかな?と答えた。素直に自分の気持ちと向き合うことって、難しいことだけれど、自分の気持ちからずっと逃げなかったんじゃない。時間だからといって切り上げず、考え続けているじゃない。私はちょろくて、確かにそうだとすごく納得して、また泣きながら帰った。やっと、少しずつ前を向けそうな気がした。

 とはいえ、行動に移すことは難しかった。母は私が勉強をしていないことに気づき始めていた様子だったけれど、そっとしておいてくれた。なんとなくマイナビを眺めても、エントリーする気にならない。ローカルの求人サイトや学校の就活支援センターにも通ったが、気乗りはしなかった。

 そこで、ふと奈良に行こうと思った。好きなアイドルの出身地だった。奈良の平城宮跡で泣いたらスッキリするだろうなと思って、1週間分宿を予約した。

 行く宛もなく、毎日ぶらぶら散歩をした。宿に泊まっていたおじさんと話をして、ならまちを練り歩き、スマホを落としてからは宿でもらった地図を頼りに、僻地の温泉に行ったりした。平城宮跡を歩いたときは、アホみたいに天気が良くて、広くてなんにもなくて、私はとても小さくて、こんなものか、と思った。ならまちで朝ごはんを食べたときは、こんなに美味しいものが私の細胞になっているなら、私は美しい人間に決まっているなと確信した。奈良から帰ってきて、就活をしようと決心した。ただ、9月いっぱいで良い会社を見つけられなかったら1年のんびり留年しようと考えていた。やっと親にも伝えることができた。幼馴染と久しぶりに電車で会い、就活を諦め院に進むことにしたとの話を聞いて、私と逆だねと笑った。

 結局ギリギリのところでなんとなく良い会社を見つけ、嫌なところだったらすぐに辞めようと軽い気持ちでそこに決めた。やりたいことではなかったけれど、なんとなく近くかすっている、そんなところだった。


 内定と同時に卒論を進めていた。私は卒論を学生生活の記録にしようと思い立ち、ナラティブやレジリエンスを勉強した。暴論めいたものになったけれど、先生はオリジナリティがあると、やっぱり褒めてくれた。

 4年の冬にはずっと描きたかった同人誌をつくり、卒論を完成させて、卒業旅行に行った。一番大学生らしいことをしていた時期かもしれない。もう一度奈良に行って、奈良の大仏に感謝を伝えた。

 卒業式の夜、ゼミで飲みに行った。私はみんなの前でぎゃんぎゃん泣いていた。飲み会に行く前、ちょっとだけ好きだった男に偶然再会したことも涙を助長させていた。べろべろに酔い、下ネタで騒ぎながら、先生にありがとうと伝えた。先生は、あなたはよく頑張りましたね、ひとの目に映るものではないが、私はしっかりと、あなたが頑張って頑張っていたことを知っていますと言ってくれた。おしぼりは涙と鼻水でべしょべしょになって、友達からティッシュを貰った。

 3月30日、学生最後の日を東京のマンスリーマンションで過ごした。明日からは学生証が使えなくなり、新卒研修がはじまる。また1人で泣いていた。自分が誇らしくて、不安はあるけれど、自分自身に感謝の気持ちでいっぱいになって泣いていた。気分はさながら社会に立ち向かう戦士だった。大学生活を経て、私はだいぶおめでたい人間になっていた。ちなみに、その日の日記には、『私は大きな勇気を持って「社会人」になれるのだ。いま、まさに、やっと、社会人になれる。たくさんのものが私を支えてくれている。さよなら、またね』と書かれていた。なんとも愛くるしいと、今の私もおめでたくそう感じる。




 以上が私の学生生活の全貌である。


 好きなアイドルの曲の歌詞に、「夢とお別れね」という一節がある。やさしい声色で、嬉しそうに歌っていて、何故だか分からないけれど大好きで、いつ聞いても心臓がぎゅっとなる。

 みんな、魔法のように自身の経験を語る。2年休学してフランスで店を立ち上げたという学生の記事を読んだ。2ページ目ではすでに渡仏していて、細かいことは書かれていない。なんでそうなったか不思議で、かっこよくてたまらない。

 いまでもカウンセラーという仕事に興味がある。あの時の思い込みだと思っていたけれど、2年経ってもまだなりたいと思っているのだからもう思い込みでもいいや、と感じるようになった。絵を描くのが好きだから、イラストレーターにもなりたい。やっぱり日本の働き方にすこし疑問を感じていて、ラフに過ごしてみたい。ニュージーランドとかで、羊に囲まれながら昼寝して暮らしたい。奈良の小さな雑貨屋で、ギャラリースペースがあって、コーヒーのいい香りがして、2階はカウンセリングルーム。何度も妄想している。いまは、カウンセラーについてネットで調べるのが関の山だが、いつかそれが魔法の最初の1ページになることを祈って、のんびり生きていこうと思っている。


 気づけば就職して2年が経った。いざ働いてみればあっけなく、私は立派な社会人になった。つらいことがあって辞めたいと大泣きした日は何度もあるが、それでも2年働いた。なにをそこまでびくびくしていたんだろうと、当時の気持ちを思い出せなくなりつつあって、それがいやに寂しい。

 昨日、北大の並木道を散歩した。学力試験会場と書かれた看板が立っていて、友人と一緒に思い出を語りながら当時二次試験を受けた農学部校舎の前まで歩いた。道は溶けかけた雪でべしゃべしゃで、今年の受験生の足も濡れるのだろうと思った。


 長くなりましたが、読んでくれてありがとう。明日仕事が終わったら、キンプリのDVDをみようと思います。卒業してから、推しが増えたことも変化のひとつかも。

 またいつか、学生生活を思い出して記す日が来るのを楽しみにしています。よろしくね。